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チェーホフ『三人姉妹』 演出:ケラリーノサンドロビッチ

SIS company企画【KERA meets CHEKHOV】の第二弾、『三人姉妹』。

これは面白い。ケラさんのチェーホフ。直観的にそう思った物の、第一弾はチケットが取れず行けませんでした。『かもめ』

それで今回の『三人姉妹』。発売前から頑張って、抽選予約で取れました。
今は、いろいろあるんですね。チケット取得のやり方。

『三人姉妹』、初演が1901年。演出がスタニフラフスキー。

ドイツで、舞台に総合芸術の概念を導入したリヒャルト・ワーグナー(83年没)の『ニーベルングの指輪』がバイロイト音楽祭で再演されたのが1896年(初演が1876年)。
フランスでは、サラ・ベルナールがラシーヌを演じている。
ニジンスキーを擁するディアギレフがパリでバレーリュス、ロシアバレエ団を主宰するのが1909年。
ちなみにリュミエール兄弟がパリのグランカフェの地下で世界最初と言われる映画の公開上映をしたのが1895年。

チェーホフの芝居と言うのは、そんな近代演劇・舞台の最盛期に陽の目をみた舞台だったんだなあ、とつくづく思う、舞台でした。
まあ兎に角、役者が揃った。それに演出家が前面にでて解釈だか演出だかわからない舞台ではなく、戯曲と役者が前面に見えてくるような舞台。ケラさんの演出は、深い所で戯曲がもつ重要性を、きちんと見せてくれました。

故に演出はいたってスタンダード。原作に忠実に、まあ多少の小細工はあったものの、(一幕最後で、マイクの声を使うとか。)非常に落ちついていました。
劇場が、文化村シアターコクーンだったんですけれど。何故か銀座のセゾン劇場のおもむきを感じました。

無くなってしまいましたけれど、セゾン劇場、新劇より洗練された本格的、翻訳劇のメッカ、とまではいわないですけれど、贅沢な翻訳劇と言えば、やっぱりセゾン劇場だったように思います。

チェーホフの芝居を見ていると、たとえば『かもめ』には、『ハムレット』の影が見えます。母親と息子、母の愛人。冒頭での親子の出会いも、ハムレットの台詞の応酬ではじまる。チェーホフが意図的にやったかどうかは置くとして、舞台における相関図の根本的な要素には抗えない。
シェークスピアの意図ではないにしても、『ハムレット』はそのままギリシャ悲劇の『エレクトラ』、アトレウス家の相関図を踏襲している。
そう見て来ると、やはり『三人姉妹』に、リアの三人姉妹の影が見えてもおかしくない。とそう思ってはいたのですが、やはり『三人姉妹』にリアの影と言うのは難しいかなあ。と思っていました。

でも、今回のケラさんの演出の『三人姉妹』を見ていて、演劇と言う物のその奥にある、その何かが垣間見られた。

ちょっと不思議な配役がありました。段田安則さんのチェブトゥイキン、無能な老軍医の役。段田さんは姿勢が良いので、ちょっと老人に見えない、小太りでもないし。
キャストの発表を見た時は、ヴェルシーニンかアンドレイかなと思ってました。

堤真一さんも出てるので、ヴェルシーニンが堤さんだろうなあとは思いましたが。でも堤真一さんのソリョーヌイ、段田さんのトゥーゼンバッハ男爵、まあ、それは無いにしても、そんな贅沢も思ったりして。

でも、あの老軍医ではないだろうなあ。

案の定、一幕とかの段田さんは、いまいちしっくりこない。三女のイリーナに豪華なサモーワールを贈って老醜を晒すシーンも、あまり老醜が漂ってこない。
老い先もないし、お金もない、なのにそんな贅沢をして。そんな何もない老人の風情が漂わない。

でも三幕、火事の場。
誤診で患者を死に追いやってしまい、辞めていた酒に泥酔し、半狂乱で舞台に現れる。まるで娘に裏切られ半狂乱の態で自殺に失敗したグロスターの前に現れるリア王のように。
時計を壊し、全世界に抗うように不条理を喚き叫ぶ。

そしてラスト、さらっと三女イリーナに、「退役したら戻ってきますよ。」と伝えるシーンでも、リアとコーディリアが見えてくる。

それにナターシャ。
オリガ、マーシャ、イリーナが人生に流されるばっかしで、実は駄目な女なのに対して、それこそ、ゴネリルやリーガンのように生きて行くのに手段を選ばない「女」。
4幕で、乳母車を押す夫のアンドレイを見ていて、ナターシャとアンドレイの子供のボーヴィックとソーニャが、実はナターシャと愛人、アンドレイの上司でもあるプロトポーポフの子供だと言う解釈を思い出した。今まで見た公演だと、「それは無いだろうなあ。」と思っていたが、今回の公演を見ていて、それも有りかな。
神野美鈴さんのナターシャは、悪として突出することなく、生きて行くには何でもして行く「女」の像がきちんと出ていた。

『リア王』で、次女のリーガンは夫のコーンウォール侯爵が死ぬとすぐに、野心家のエドモンドに乗り換え、そのエドモンドを巡って、「まるでミルクのような」つまらない夫に不満をもつ、姉ゴネリルと殺し合いにまで発展して行く。
『三人姉妹』でも夫に不満をもつ次女のマーシャが、ヴェルシーニンと浮気をする。しかし、ヴェルシーニンは、エドモンドほど野心家でないし、ただの哲学好きのお喋りにすぎない。
そして、長女のオーリガが、全てを受け入れて、流されるままに生きて行くように、次女のマーシャも去っていくヴェルシーニンを、そこまで深く追っては行かない。
「また同じ生活がはじまるのだは、生きて行かなくてはねえ・・・・」

ただ、シェークスピアの持つ刃のような残忍さは、三女のイリーナにきらめくように思うんだよね。愛しても居ない婚約者の男爵を、決闘から死に追いやるのは、最終的にはイリーナの意志で、だから、イリーナは男爵の死を聞いた時「分かってた、私分かってた。」となって行く。もちろん、それは一つの解釈に過ぎないけれど。

もちろん、チェーホフがリアを下敷きにしていたかどうかは、実はどうでもいい事だとは思う。
ただ演劇史上もっとも巨大な『リア王』は、そのまま古典ギリシャ、テーバイ王家の悲劇、オイディプスやクレオンの影を色濃く踏襲している。そしてシェークスピアにはそんな意図は全く無かったんだと思う。
でも、やはりその大きな歴史の流れが感染症のように戯曲に浸透し、人が必ず死んで行くように、その先へと導かれてしまう。
たかが二千年や三千年で、人は根本的には何も変わらず、ただ同じように生きて行く。でもだからこそ、それに抗して戦って行く。
チェーホフの演劇は「静劇」とも呼ばれるけれど、その静けさの奥では、熾烈な戦いがきらきらと火花のようにほとばしり、それが単に喚き生きて行くシェークスピアの演劇から、全てを「受け入れて」いくと言う静かな植物的とも言える内面の戦いへ昇華されたのではないかなあ。

ラスト、三人が舞台中央に立ち独白を始める。ニーナ(『かもめ』)の「わたしはカモメ・・・」、アーニャ(『ワーニャ伯父さん』)の、「伯父さん、生きて行きましょうよ、」の悲しい呼びかけ、そして『三人姉妹』で対象は消え三人の独白へと昇華する。
軍楽隊の音楽が拠り一段と高らかと鳴り響き、三人の声は、人生の全てを受け入れる諦念にもきこえる。ああこれは、悲しみだけではなく、その先の希望への微かな光なんだなあ。足早に降りて来る幕も、より大きく響く軍楽隊も、そんな風に言っているように思いました。


今回の公演では、宮沢りえさんが、やっぱり凄かった。
あまり古典をやらない(有名どころだと、同じSISカンパニーの『人形の家』のノラ位じゃないかなあ。)ので、実は舞台で見るのは初めてでした。
宮沢りえさん、一連の騒動の後、亡くなった久世光彦さんの演出で、向田邦子原作ドラマや夏目漱石の鏡子夫人(ちなみに漱石は本木雅弘さん)とかでいろいろみてました。
久世さん一連のドラマだと、作家の佐藤愛子さん原作で、その母親役をやった『血脈』が一番印象深いかなあ。宮沢さん、熱演でした。夫の佐藤紅録役が亡くなった緒方拳さんだったし。
久世さんの演出も的確だし、低予算の所為か、ちょっと舞台的な所もあったりしてね。
そのころから、ひとつ上を目指せる感じがしてたんで、舞台に出だした頃から気になってました。今回の公演も、宮沢りえさん目当てと言うのは、多少あったかなあ。でもこれだけ豪華だと、やっぱり行きたくなりますけれど。
久しぶりに、舞台に居るだけで、緊張感が漂ってくる、良い役者さんを目に出来ました。ちょっと前の白石加代子さんの舞台にあるような、でてくるだけで何かただならぬものが漂う。でも舞台の楽しみってそんな所にあるんだろうなあ。

オリガ役の余貴美子さんも良かったです、どっかりと包み込むような大きさがあって。だからいろいろ成立するのでしょうけれどね。

公演の前半に行ったんで、蒼井優さんのイリーナは、可愛さが前面には出ていたんですが、その奥にあるイリーナの身勝手さ、そして残忍さが見えなかったかな。そう言う演出だったのかもしれないし、まあ、そこはわからないんですけれど。蒼井さんだったら出せるような、若さ故の残忍さがきらり出て来ると、より面白かったように思います。

ヴェルシーニンの堤真一さんは、上手かったなあ。亡くなった横澤彪さんの『ヴェニスの商人』のアントーニオ以来だから、もう二十数年ぶりかなあ。でもたしかTPTとか結構出てたから、それ以外でも見てたかもしれないけれど。ヴェニスの印象が強い。
今回のヴェルシーニンは、意外でした。
堤さんだから、二枚目風かなあと思ってましたが、ただお喋りの三枚目。
でも、台詞が生き生きしてて、あんな詰まらない希望だ未来だの詰まらない哲学談義の講演風長台詞が、不思議に生き生きと聞こえてくる。
冒頭にも書いたけれど、やっぱりチェーホフの芝居は、演劇全盛期の遺産なんだなあ、とつくづく思いました。あんな台詞でも見世物に出来てしまう役者がいて、初めて、そこまで血が通うような舞台の隅々が生きて来る。
普段だと、早く終わらないかなあと思うヴェルシーニンのシーンも逆に待ち遠しくなるほどでした。

まだ、ケラさんのチェーホフは、『ワーニャ伯父さん』、そして『桜の園』と続くようです。楽しみ、楽しみ。
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