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徽宗「桃鳩図」 三井記念美術館『東山御物の美』展

北宋の皇帝だった徽宗が書いた、桃の枝に止まった鳩の絵。個人蔵の為、十年に一度、10日間のみの展示だそうです。前回は、根津美術館の南宋絵画展。

小ぶりな絵です。徽宗皇帝が26歳の時に描いたとか。

モーツァルトの小品のように、生き生きとして、それでいて均斉のとれた。無垢で愛らしい。静かに愛蔵するのは、こんな作品なんだろうなあ。

バッハの大家であり、「ゴールドベルグ変奏曲」のチェンバロ演奏で有名なワンダ・ランドフスカ。

そのランドフスカにモーツァルトの4つのソナタとロンドの録音があります。
チェンバロではなく、ピアノでの録音。晩年のVICTORでの録音。
気品に満ちてやさしい、演奏者のエゴを全く感じさせない、音楽そのもののような録音。

そんな物を感じます。先日見た、フォードの「香りも高きケンタッキー」とか。


でも、やっぱり隣の部屋に展示されていた牧谿に魅かれてしまいました。
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牧谿「遠浦帰帆図」 三井記念美術館『東山御物の美』展

「遠浦帰帆図」は大軸の『瀟湘八景図』の中の一点。京都国立博物館の所蔵なので、東京ではなかなかお目にかかれない。10年前、根津美術館での南宋絵画展以来だと思う。

10年かあ。あっと言う間なんだなあ。

牧谿と言う画家を知ったのもその頃でした。その前に、五島美術館で大牧谿展があったらしいけれど、その頃は、まだ知らなかったので行けませんでした。

その後、芸術新潮の特集で知って、根津の南宋絵画展や、国立博物館の国宝展で見て以来、「うーん、やっぱり凄いんだよねえ。」

「遠浦帰帆図」。上手(画面右)から下手(左)に向かって強い風が吹いている。その風に乗って二艘の帆かけ船が岸に向かっています。

下手側の下方では、木が大きくたわみ、その奥、のぼりを上げた湖岸の家。人が二人ほど、木を挟んで、更に二人の人、背を向けて座り、釣りでもしているよう。

小さい、ちょっと離れると、ほとんど人は見えない。

画面奥には、向こう岸の木立、それに続く後方に連なる山の端。

手前の山の端には、点苔(てんたい)と言われる、黒い点が何箇所か打ってあって、風雨に耐え、強く存在する山の岩肌の稜線が、いま産まれたような荒々しさを持って迫って来る。

時と言う遠近法が、遠く奥に消えて行くように遥かな山並みの向こうに、うすくかすかに何そうにも、その山の端の稜線に連なって、下手の後方に、あの西洋の科学的な、数学的な、遠近法を越えて、時の広がりのような茫漠さと、いまそこで生まれたような新鮮な奥行きを感じさせながら消えて行く。


図録などでは全く見えないので、本物を見て気付いた。
下手の此岸と彼岸の山なみの間に広がる湖面が、光に満たされ輝いている。

上手側からは大きくたなびくような薄墨で、大気の流れる強さが印象付けられているので、あの下手側のまるで天上に満たされたような、まっさらな光のたまり場のようなぬくもりは、雲間からさした陽の光なのかもしれない。

帆船のさっそうとした、まっすぐな走り。此岸の、風に流されているとはいえやや誇張された、木々の撓み。
『平沙落雁図』『』『煙寺晩鐘図』『漁村夕照図』に比べると、この絵の中心は強い動きに有るのだと思う。

大気の激しい動き。

だが、遠く消え入るようにつらなる山の端、陽だまりのようなひかり、そして、まるで大風など意に介しないように話しこみ、釣りに佇む人々。

やや離れてこの絵を見ると、手前の人々は茫漠とした時間のような空間に吸収されてしまう。遠くの山の端も消えて行く。船の帆影のような薄ぼんやり。山の端に打たれた黒い点苔。木々の誇張された幹の撓み。そのまわりに漂う流され行く大気。

この世ならぬ、深い静けさと、いま産まれたばかりのような不思議な白いひかりが、ぼんやりとその辺りにだけただよって。

形而上のなにかが、やっぱりあるのかなあ。まあそれが芸術かあ。

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『香りも高きケンタッキー』ジョン・フォード

東京国際映画祭の一環で、京橋のフィルムセンターでの上映。

1925年製作のフォードの無声映画。

こんな時代に、まあ無声映画だし、空いてるだろうと思って行ったらビックリ。

同じくフォードの『誉れの一番乗り』との連続上映。
『誉の一番乗り』『ケンタッキー』の順で、だったら両方見よう。

それで、「誉れ」の30分前に行ったら、「ええ! 並んでるし。」
「立ち見は無しなので、ご覧に成れるかどうかは分かりません。」と案内の方。
別の列もあり。「あちらは17時の回(ケンタッキー)のお客様です。」。

「うーん、どうしよう?」、誉れをみたらケンタッキーは見られないかもしれない。
列を離れました。

ただねえ、フォードって言うか、自分は映画をそれほどは好きじゃあないんだなあ。
先日行った、三井記念美術館でまだ「老子図」「叭々(はは)鳥図」が見られる。ちょうど次の日で展示替え。京橋からだと歩いて行ける距離だし、見てから戻って、もし見られなかったら、まっ良いか。

それで、三井記念美術館に行って、二時間前には戻ってきたら、大丈夫でした。でも映画で並ぶなんてねえ。牧谿の絵が、中国に残っていないように、真に美しいものには日本人は敏感なのかなあとか。

「香りも高きケンタッキー」

「如何にも美しく、親しみ易く、誰でも真似したがるが、誰も真似る事ができない」
フォードについてじゃ無くて、ゲーテのモーツァルトに対する言葉(小林秀雄『モオツァルト』)。
ゴダールの『フォーエバー モーツァルト』もフォードに関する映画だったかなあ。

さりげなく撮っているようで、おそらくフォードはさりげなく撮っているだけ何だろうけれど、あの馬たちの戯れは、もう二度と現れる事がない美しさを持ってしまう。それは、一つの表現様式の創世期に生きた人間だけにゆるされた特権なんだと思う。

ただ、ヒッチコックの「たかが映画じゃあないか。」ってな感覚が、フォードの映画にもある。
映画が持つ楽観性かなあ?

ゴダールは映画史自体は、グリフィスとロッセリーニに分類されると言っていたそうだけれど(蓮実重彦氏の講演より)、グリフィス系統の映画には、映画のもつその楽観性がどうしても着いてまわる。

「かなしみ」かなあ。「モオツァルトのかなしさは疾走する。涙は追いつけない」小林秀雄の言葉だけれど、そういう「かなしさ」。それがあるかどうかって事なのかなあ。

素晴らしい映画だとは思います。物語自体も、それ以降のハリウッド映画の模範になったとも思います。
でも、やっぱり、好みではないかなあ。家に帰って、ロッセリーニの『ドイツ零年』とかをちらっとネットで見てしまいました。こっちの方が好み。

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本書きです。公演もする事になりました。

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