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チラシ! できました!

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リヒャルト・シュトラウス:楽劇《ばらの騎士》

久しぶりの新宿です。雑遊で公演があって、終わった後にぶらぶらと。そうだジュンク堂で本を買おう! そう思って、三越に行ったら。あれ? 三越のビルが工事用のボードで取り囲まれて、人の気配もなし。あらら、3月末で閉店したとか。紀伊国屋書店も良いけれど、哲学書や文学書、そんなマイナーな本が充実していたジュンク堂が無くなってしまいました。あああ残念。

どうしようかなあ、あれ「Disk Union」? 中古レコード屋と言うよりも中古CDかな。たくさんあるし、クラシックもあったかなと言う事で、Disk Unionのクラシック館に行きました。新宿通り沿いの献血のあるビルの8階。初めて行ったんだけれで、結構広いし、品ぞろえも充実。それに中古だから安いし。

いま凝ってるバッハ『フーガの技法』。ジュリアード弦楽四重奏団がある、あれソコロフのピアノ盤もあるじゃん。ちなみにバルシャイ指揮の弦楽版もあったけど、69年の録音。どうも調べたら、バルシャイには72年の録音があり、これはLPだけでしか出ていないけれど、そっちが良いらしい。そのうちCDになるだろう、それまでは我慢しよう。

しかし、『フーガの技法』の録音も、とうとう8種類になりました。

と、でも『フーガの技法』の前に凝って集めたCDが、R・シュトラウスの楽劇『薔薇の騎士』です。そんでもって、あちこち見てたら、あれ! カラヤンの82年録音盤が2000円、だって3枚組ですよ。買っちゃえ。

このCD、蕎麦屋の店長が持ってたので買ってなかったんだけれど、恐らく『薔薇の騎士』の録音のなかではもっとも充実した録音。

薔薇の騎士と言えば、何と言ってもウィーンフィル(以下 WP)です。そんなもんで、もってるCDもほとんどがWPです。
カラヤンだと、60年、64年のザルツブルグ音楽祭の放送用録音のCD化かな、そんな海賊盤。EMIから出てる、正規のフィルハーモニー交響楽団も抜粋版であるけれど、やっぱり音は悪くても、WPが良いなあ。

それに指揮者で言うとエーリッヒ・クライバー、ヨーゼフ・クリップス、レナード・バーンスタイン。結構、異端だけど、結構気に入ってる、ハンス・クナッパーツブッシュも、みんなWP。クレメンス・クラウスもあるけれど、これは戦中の録音で、バイエルン放送交響楽団の演奏。

ただねえ、やっぱり古いんですよ。オペラだし、ライブ録音がほとんどんだしね。そんな点では、やっぱり80年代のカラヤンの録音は、いろいろな面で充実しています。それに、このオペラ、実は焼きまわしです。それまで、『サロメ』、『エレクトラ』とちょっとキワモノっぽいオペラを作って来たシュトラウスが、「やっぱりモーツァルトが良い!」って事で、モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』をモチーフにしたオペラ。その後『魔笛』を基に『影の無い女』を作ったりもした。

でもねえ、やっぱり焼き回しって、焼き回しなんですよね。オリジナル、つまりモーツァルトを越える事は出来ない。たしかにラストの三重唱、二幕の冒頭の二重唱、一幕ラストの元帥夫人のアリア等は素晴らしい。でも全編に統一された何かがない。モーツァルトにしろ、ワーグナーにしろ何処を切っても強い体臭のように匂いがする。でも、シュトラウスになるとその体臭が弱い。
クラシック音楽の中でシュトラウスはバッハ以降、200年近い訳ですから、技術的には可能性が極められた、でも、とうとうその限界が見えてきたって感じが強くする。
だから、シュトラウスもモーツァルトに戻らざるを得なくなる。これ以降だと、もうグランド・オペラとして人口に膾炙するような作品が無くなって来る。そして1949年にシュトラウスも亡くなる。
以降、確かに60年代にはまだ、WPも健在だったし、シュワルツコフのような大歌手もいた。しかし、80年代になると流石に、WPの音も、かっての豊穣さを湛えた豊かさよりも、磨きのかかった輝きのほうへ近づき豊かさが消えて行く、歌手も技術的には完璧でも小粒になってくる。

そんな悲しみを遠くに湛えながら、それでも豪華絢爛に、かつ大時代的に、オペラが幕をあける。そんな感じがします。

リヒャルト・シュトラウス:楽劇《ばらの騎士》フーゴー・フォン・ホフマンスタールによる3幕の喜劇
レーベル:DG Deutsche Grammophon 規格品番:UCCG-4458
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)1982年11月、1983年5月、1984年1月 ウィーン

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『フォーク 回想』 公演案内

一人芝居 『フォーク 回想』
原作 ジョゼフ・コンラッド  作・翻訳・脚色 岡田久早雄

出演:古口圭介(演劇組織 夜の樹)

宣伝美術 小林直(Office わぁまる)
制作 奥田英子(演劇ユニット G.com)
協力 演劇組織 夜の樹,Office わぁまる,演劇ユニットG.com,蕎麦処「美濃戸」,殿岡智隆

ジョゼフ・コンラッド(Joseph Conrad, 1857 - 1924)はポーランド出身のイギリスの小説家です。16歳で船乗りを目指し、世界各地を航海。1895年『オールメイヤーの阿呆宮』で文壇にデビュー。主要作品に『闇の奥』、『ロード・ジム』、『ノストローモ』、『文化果つるところ』、『密偵』などがあります。
『フォーク 回想』は30歳前のコンラッドが、バンコクで実際に経験した事件が元になっていると言われています。
そして、コンラッドは作中で言っています。
「小さなボートや弱い船を襲う難局は、密接な接触や、差し迫る波の脅威によって、人間を一つに引き寄せる。しかし、フォークの場合、そこには安全で便利で広い船が有った。ベッド、食器類、居心地の良い船室、コックの調理場、それが飢餓と言う無慈悲な亡霊に侵され、支配され、取りつかれていたのだ。」
差し迫った恐怖は、人間の「連帯の面」を強調します。そして多くの演劇や映画はそこを好むと思います。しかし、より現実の世界、安全で広く隠れる場所が十分にあり、画策や策略が可能な世界。そこで重要な物が徐々に少しずつ奪われて行く時。
真実とは何なのか?
もちろん答えはありませんが、そんな状況での人間の赤裸々な姿の暴露。そこをしっかりと描きたいと思います。

○チケット料金 前売り/当日とも 2000円(8・10プレヴュー公演 1500円)全席自由 ワンドリンク込み
前売り開始日 2012年06月25日

○チケット取り扱い 及び お問い合わせ
岡田久早雄プロデュース
web予約 http://combray.blog.fc2.com/ 
電話予約 080‐1167‐0763(制作 奥田)
mail予約 teatro.combray@gmail.com

岡田久早雄プロデュース ブログ
web http://combray.blog.fc2.com/

○スケジュール 公演日程
10(金)      ☆19時
11(土)○14時半 ○19時
12(日)○14時半 ○19時
13(月)○14時半 ○19時
☆の回はプレヴュー公演です。

パフォーミングギャラリー&カフェ『絵空箱』
〒162-0801 東京都新宿区山吹町361 誠志堂ビル1~2階
(有楽町線「江戸川橋」駅 徒歩2分/東西線「神楽坂」駅 徒歩9分)
TEL 03-6265-0825

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実存から実存者へ レヴィナス

読みました、読みましたとも、エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(西谷修 訳 ちくま学芸文庫)。

" il y a "(イリヤ)、「ある」についてです。ドイツ語だと" es gibt"になるそうです。

" gibt " は「ギフト」=与える、になる。つまり、ドイツ語で「ある」は「与えられてある」に繋がる。

それにたいして、フランス語の" il y a "は、" avoir "(持つ)の活用形。単に「ある」。状態として「ある」。日本語だと「いる」に近いのかなとも思います。

レヴィナスは、" il y a "(イリヤ)、に関して、子供が一人で眠っている時に感じるざわめきにヒントを得た(『倫理と無限』朝日出版社)とか。

「「ある」がそっと触れること、それが恐怖だ。」(『実存から実存者へ』世界なき実存)とも言っています。

真理が「ある」。とか、宝石が「ある」。より、やっぱり、何か「いる」!。それこそ、恐怖の対象が「いる」。的な感じかな。

それまでの、パルメニデスからプラトン、ハイデッガーまでの哲学って、やっぱり存在に対して、積極的なプラスの側面を重視してきたような気がする。「存在」は真理に繋がって行くような「光」。でもだからこそ、その道程は暗く、探し求める探求となる。でもレヴィナスの場合は、どうも違う。

もちろん「光」はレヴィナスでも、重要なキーワードだけれども。もっと切迫した何か、そんな物を感じてしまう。怠惰、疲労、不眠・・・そんな哲学的ではない、もっと人間の「生」に近い、より肉体をそこに感じざるを得ない言葉が並ぶ。そして「他人」。デカルトが「我」を主人に仕立ててから、何となく無視されてきたような物。それを真摯に問うて語って行く。

ムズいんだよね。いるんだ、確かに、なにか「いる」。でも、捉えようとする、すっと他の何かが潜んでくる。唐突に、「光」とか、「愛」とか「エロス」とかが何の断りもなく入って来て。存在を邪魔する。

実詞化と言うのが、レヴィナスの目指す所で、それは動詞を名詞に、主語に移行させることともなっている、定位とも言われるが、その経緯がこれまた難解だ。

こう言う見方は、本来いけない事だろうが、レヴィナスは、第二次大戦中にフランス軍の通訳として従軍し、ドイツの捕虜として強制収容所で終戦を迎えた。しかし、出身のリトアニアでは、両親を含む親族が殺害された。
戦後、解放されると、忽然と家族・親族が消えていた、と言う事である。それは想像を絶する。喪の仕事も何もない。その現実。

il y a と言ううごめく何かを、実存にもたらし、実詞として、きちんと定位することは、死者を弔い、きちんとした墓誌、記念碑という言葉にもたらす事なのかなあ。

そんなことも考えつつ、でも違うだろうなあ。と言う事で、『時間と他なるもの』(『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫 所収)に挑戦中です。

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ラファエロ 

ゴールデン・ウィークとは言え、お蕎麦屋さんでお仕事だった訳ですけれども、三日の日の昼間だけお休みになってね、急に。ああそうだチケットが有ったな、フェルメールを見に行った時に買った、ダビンチ展のチケット。

Bunkamuraザ・ミュージアム「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想」展

ただね、ちょっとね。『ほつれ髪の女』って、それがメインなんですけれど、素描画だし。紹介見たら、『岩窟の聖母』が来るって? ルーブル? ロンドンナショナルギャラリー? これは行かなくては! とチケットを買ったんです。でも調べたら複製品らしい。本物とかの説もあるらしいですけれども。

そんなもんで、なんとなく、まあ行っとこうか、チケット有るし、時間もあるし。第一、今、行っとかんと、何時行けるか分からないし。そんな感じです。

休日だったんですけれど、人はまあまあ。それなりに見て、ふっと見たら。あれ? これってラファエッロ『鶸の聖母』? ええなんで、そんなん来てるって、書いてなかったしって目録見たら、やっぱり『鶸の聖母』。

『鶸の聖母』はフィレンツェのウフィッチィ美術館の筈だが、個人蔵?
でもでも良く良く見たら、こちらもどうも複製らしいです。

ただ、良く出来てる。

ダ・ヴィンチは厳しいんですよ。そりゃ理想ですから、理想って実は厳しいし、その厳しさがダ・ヴィンチをして天才にもしてるんだと思います。だって完璧の追求のあまり、完成作品はないとまで言われてる。人間だもの、存在は未完です。

ミケランジェロにも同じような厳しさがある。もっと直に来る直接的な厳しさ。

昔は、若い時は、そんな厳しさに憧れたりね。でも年を取って来ると、実は、ラファエロの優しさの方に惹かれる自分がいたりする。無垢な少女のように、ただ優しさに溢れた聖母。無邪気な子供のように戯れる幼子イエス、そして天使。悪戯だってするだろう、だって人間だもの。

ダ・ヴィンチのイエスや天使は、使命によって選ばれたかのような厳粛さに満ち満ちて、聖母も深い思索の末に、全てを受け入れる覚悟。ほほ笑みの中に微かにたゆとう光、それも深い苦難の末の諦めの先にある微かな光明のような、なにかそんな統一に満ちた、全体の意志が見られたりもする。そう、まあ理想。真実のイデアとか、まあ。

でも、それって疲れるんだよね。若くて、パワーもあって、何でか「善」に向かってて。でも年をとってちょっとずつ奪われて、でもそれで真実みたいなものの影が微かに漂ってくると。そんな理想って、実は、本当は、ちょっと胡散臭いんでないの? みたいにね。

ラファエロは37歳で死んだとか。「ラファエロは無垢の青春、人生最初の幸福期だけを生きるように運命づけられていた。幸福以外、知る事も無く。(中略)生命が衰退へと微かに傾きかけるその直前、光の中に姿を消した」H・フォション『ラファエッロ 幸福の絵画』(平凡社ライブラリー)

幸福か。それは無垢で無邪気で、そして悪戯っ子

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いやはやなんとも、久しぶりのブログです。

忘れていたとか、そう言う事ではないんです。放置プレイを楽しむとかね、そう言う事で良い訳も出来るんですが、まあそれこれも言い訳です。
G.comさんでブログを書いていた時は、週に一・二回は書いていたので、当初はそんなぐらいで書いて行こうとは思っていたんです。まあそれはそれで、実は結構、楽しかったりもした訳で、そう楽しかったと言うよりも、確かに書けたんですわ、そんくらいで、まあ自分で納得出来る文章がね。
でもです、でもなんですよね。今回書き始めて、何本かと言うよりも、つまりはカテゴリーで作った範疇だけは埋めようとして書いた訳ですけれども、どれもこれも詰まらない訳です。自分で書いていて、と言うよりも読み直してみて、これじゃあなあ。なんて思ってしまう訳です。

私の文章に対する感性が変わったのかな? とか思ってG.comさんで書いていた頃のを読み返したりすると、明らかに、そちらの方が良かったりもする。まあ素晴らしいとまでは言えないにしても、自分で納得できるだけの物にはなっている。酷いのもありますけれど、勢いはある。でもでもでも、そんな勢いも無い。まあだから書かなくなって、放置プレイにもなる。

「書く」ってなんなんだろう? なんて事を思う事によって、書いてみようかななんて姑息な手段まで考え出したりして、でも、それはまあ言い訳なんですよねえ。言い訳か、でも誰への言い訳? 自分になるのかなあ。読者と言えればカッコ良いけれど、そんなに読者がいるとも思えないしね。だったら辞めてしまえ。そうです辞めてしまえば、そう「楽」になる。
楽になった所で、いいや「楽」にはならないだろうなあ。そう言う事ではないんだろうなあ。だってですよ。つまりは演劇だってそうなんです。四〇を越えて芝居に携わって、公演をして、また書いて、公演をする訳です。

前回、公演をした時に、思ったんですよ。40を越えてのデビューです。それなりにお客さんも来てくれて、収支も何とかあって。それなりに誉められて。でも、でも、でも、でもそうです。また公演するだろうなあって、そう思ったのは、それはそれと同時に、ああこれでもう絶対に演劇で満足する事はなくなっちゃたんだなああ。

演劇って、つまりは自分の書いた物での公演の事ですけれど。

そりゃあ良い芝居はあるし、舞台は好きだしね。他の公演を舞台を演劇を見れば、それは楽しいし、それで満足だし、すごい舞台があれば、ああなんて幸せなんだろうとかね。でも、でもそこに「私」が入ると、もう絶対に満足は無いんだなって事がヒシヒシと感じられてねえ。そう今でも思い出すな、公演が終わって、演出の剛ちゃん家の三茶から深夜、打ち上げ後のタクシーで環七走ってて、寂しい。その辛さだけが延々と続いていく環状線みたいに。でもだから公演は続けて行くし、でもだから、その地点に行きつく為に、なんか本当に遠く遠く遠回りで、そこに。原点なんては言わないけれど、なんかそんなところに絶えず戻って戻って、戻って初めて、また始める。寂しいから、辛いから、そのことのなかにしか、なにか本当に大事な物は無いのかな? そんなことを思って。ちょっと長めに書けた。ちょっと嬉しい。

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本書きです。公演もする事になりました。

公演情報と、その他もろもろ、書きます。

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