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実存から実存者へ レヴィナス

読みました、読みましたとも、エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』(西谷修 訳 ちくま学芸文庫)。

" il y a "(イリヤ)、「ある」についてです。ドイツ語だと" es gibt"になるそうです。

" gibt " は「ギフト」=与える、になる。つまり、ドイツ語で「ある」は「与えられてある」に繋がる。

それにたいして、フランス語の" il y a "は、" avoir "(持つ)の活用形。単に「ある」。状態として「ある」。日本語だと「いる」に近いのかなとも思います。

レヴィナスは、" il y a "(イリヤ)、に関して、子供が一人で眠っている時に感じるざわめきにヒントを得た(『倫理と無限』朝日出版社)とか。

「「ある」がそっと触れること、それが恐怖だ。」(『実存から実存者へ』世界なき実存)とも言っています。

真理が「ある」。とか、宝石が「ある」。より、やっぱり、何か「いる」!。それこそ、恐怖の対象が「いる」。的な感じかな。

それまでの、パルメニデスからプラトン、ハイデッガーまでの哲学って、やっぱり存在に対して、積極的なプラスの側面を重視してきたような気がする。「存在」は真理に繋がって行くような「光」。でもだからこそ、その道程は暗く、探し求める探求となる。でもレヴィナスの場合は、どうも違う。

もちろん「光」はレヴィナスでも、重要なキーワードだけれども。もっと切迫した何か、そんな物を感じてしまう。怠惰、疲労、不眠・・・そんな哲学的ではない、もっと人間の「生」に近い、より肉体をそこに感じざるを得ない言葉が並ぶ。そして「他人」。デカルトが「我」を主人に仕立ててから、何となく無視されてきたような物。それを真摯に問うて語って行く。

ムズいんだよね。いるんだ、確かに、なにか「いる」。でも、捉えようとする、すっと他の何かが潜んでくる。唐突に、「光」とか、「愛」とか「エロス」とかが何の断りもなく入って来て。存在を邪魔する。

実詞化と言うのが、レヴィナスの目指す所で、それは動詞を名詞に、主語に移行させることともなっている、定位とも言われるが、その経緯がこれまた難解だ。

こう言う見方は、本来いけない事だろうが、レヴィナスは、第二次大戦中にフランス軍の通訳として従軍し、ドイツの捕虜として強制収容所で終戦を迎えた。しかし、出身のリトアニアでは、両親を含む親族が殺害された。
戦後、解放されると、忽然と家族・親族が消えていた、と言う事である。それは想像を絶する。喪の仕事も何もない。その現実。

il y a と言ううごめく何かを、実存にもたらし、実詞として、きちんと定位することは、死者を弔い、きちんとした墓誌、記念碑という言葉にもたらす事なのかなあ。

そんなことも考えつつ、でも違うだろうなあ。と言う事で、『時間と他なるもの』(『レヴィナス・コレクション』ちくま学芸文庫 所収)に挑戦中です。
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ごつごつして、困難な。 レヴィナスの書物

いやあ身体をちょっとね、壊しました。背中が痛い、首が廻らない。整体に行ったら、身体が全体的に弱っているとか、ちょっと根詰めて『フォーク』の書き直しとかやってたし、年末の疲れがでたかな、フォークは寝かして。休憩、休憩! と言うことで、コンラッドも読まない。なんにしようかなあ? ああそうだ中途でやめていたレヴィナスの『存在の彼方へ(存在するとは別の仕方で, あるいは存在することの彼方へ)』(講談社学芸文庫)にしよう。

エマニュエル・レヴィナスはフランスで活躍した哲学者。第二次大戦中にフランス軍の通訳として従軍し、ドイツの捕虜として強制収容所で終戦を迎えたとか。しかし、出身のリトアニアでは、両親を含む親族が殺害されたそうです。
ハイデッガーの後に続く哲学者になるのかな。

『存在の彼方へ(存在するとは別の仕方で, あるいは存在することの彼方へ)』は超難解。そんでもって、前からあった『倫理と無限』、これは対話形式になっていて入門編みたいな感じもあるんで読み返してたら見つけました。

「そしてまた、存在の基礎的な関係は、ハイデッガーにあっては、他人との関係ではなく、死との関係であり、死においてこそ、人は一人で死ぬのですから、他人との関係の中にある非-本来的なものが暴かれるのです。」
エマニュエル・レビナス『倫理と無限』朝日出版社 原田佳彦訳

私が一番読んでいる哲学者はハイデッガー。ただ。主著の『存在と時間』ではなくて、転回以降とも第二期ともいわれる、ヘルダーリンの詩の論考や、語源学、ギリシャの自然哲学者、パルメニデス、ヘラクレイトスに関しての書物。
ああそうか、だからハイデッガーの書物の、そこに惹かれる訳だ、私は。って妙に腑に落ちた。

「芸術には残酷な法則があって、それは、人々が死んでこそ、また私たち自身がありとあらゆる苦悩をなめつくして死んでこそ、草が生い茂るということだ、忘却の草ではなく、永遠の生命の草、豊潤な作品がうっそうとしげる草が。」マルセル・プルースト『失われた時を求めて-見出された時』より

プルーストが言う通りに、芸術作品とは「死」の上に成り立つ。もちろん作品自体は永遠に通じる何かと通じ合って初めて作品として成立する訳だから、それは「永遠」だ。そして、その永遠の側に立つこと、その分析、研鑽、それは確かに素晴らしい。
ただ、生きて「顔」を持つ人間の世界では無くなる、それは神の世界とでも言おうか、ただ、やはり私は人間でしかない。理想は理想として、現実の方が上だし。人間、やっぱりそのままでの「人間」ってやつを表現したいな。そうなると、ハイデッガーよりはレビナスの方に行かざるを得ないのかな。

ハイデッガーは難解とは言われるけれど、なんかすーって入って来る。ただ、レヴィナスは入って来ない、でも次に続いて行く。言葉「傷」「可傷性」「強迫」「近さ」「身代わり」「顔」、何の説明も無しに唐突に迫ってくる言葉。
「哲学のすべてがシェークスピアについて省察することのように思える」『時間と他なるもの』(レヴィナス・コレクション ちくま学芸文庫)と述べる、おそらくその言葉が、台詞に近い力強さに満ちているからなのかもしれない。でも「人間」って、やっぱり一筋縄ではいかないし、美しいだけのものじゃない。ごつごつして困難で、でも惹かれてしまう。

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本書きです。公演もする事になりました。

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