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バッハ『平均律クラヴィア曲集 第二巻』 ピアノ コンスタンチン・リフシッツ

平均律の第一巻は、バッハ中期の曲で、息子の教育用に作られたそうです。纏まっていて心地よい。
第二巻は晩年の作、それまでの作品の総合的な体系化。

心地よいメロディーは『音楽の捧げ物』、『フーガの技法』からも聞こえては来ません。ピアノを弾く人が、「バッハはどこが良いのか分からない。」と言っていたのを聞いたことが有りますが。確かにショパンとかと比べると、甘いメロディーが無い。

バッハの後期、それは「仕事」。

日々の糧を得る手段。地道にこつこつと、陽が昇り夜が来るような大きな流れの中に溶け込みながら、全体の形成の輝く要素がきらきらと、静かに滲み出して来る「いとなみ」。

はかなく消えて行く音の、一つ一つにたしかに、命を吹き込んでいく、永続する終りの無い「仕事」。


リフシッツのコンサートは、二度目です。一度めが、紀尾井ホールでの『フーガの技法』。

今回は、平均律全曲と『音楽の捧げもの』『インヴェンションとシンフォニア』を三日にかけて演奏すると言う、まあ気の遠くなるようなコンサート。

その最終日、平均律の第二巻に行ってきました。

横浜の青葉台、フィリアホール。

平均律のCDは、ランドフスカのチェンバロ演奏しか持っていないので、それを何度か聞いて行きました。

今回の演奏、印象はランドフスカに非常に似ていました。奇をてらうのでもなく、淡々と仕事をこなしていく。演奏時間だけでも、三時間、休憩をいれて三時間半でした。

アンコールで一巻の冒頭のプレリュードを演奏してくれたのですが、此方は非常に個性的な印象を受けました。演奏評でも、一巻に関しては、個性的なものだったとか。

二巻は、ランドフスカ以外はグレン・グールドの演奏をちょっと聞いた位なので、詳しい事は言えませんが。リフシッツの演奏は、グールドのような天才的な閃きのものではなく、地に足のついた、地道なもののように思います。

リフシッツ、平均律を引く事は「仕事であり休息でもある。」と言っています。

平均律の二巻は、何気なく聞いていると非常に心地が良い。平均律、(wohltemperiert(e))(well-tempered)は「良く調整された」。平衡、調和をその礎にしている。

調和、ハーモニー。ギリシャ語のハルモニア。
ハルモニア、軍神アレスと愛の神アフロディテの三番目の子供。
兄がデイモスとフォボス。
デイモス(恐慌)、フォボス(遁走)は、戦場をあまねく支配する「恐怖」の二つの要素。

ハルモニア、調和と言う妹は、その恐ろしい恐怖の兄の妹。

歴史を、人の営みを遜色なく見つめれば、そこでは平衡や調和は、朝日の一瞬の輝きにしかず、悲惨や苦しみ、苦痛、恐怖、そして殺人に戦争、それが絶えること無くあまねく横たわり、徘徊し、支配し、止む事が無い。そんな真実がある。
だからこそ、一瞬のまたたきのような調和、平衡がそれこそ心を癒し、明るい未来という希望を示す事が、あるのかと思います。

バッハの音楽が、他の作曲家を大きく凌駕して聳え立つのは、バッハの音楽が、マイナスの要素、人間の悲惨さや苦しみを、恐怖を排除する事無く、心地よさや甘いメロディー、そして「愛」とも同値のものとして、おなじ人間の営みとして、認識しているからだと思います。

そのような、精神の感情の平衡状態が、音楽として流れてくるとき、生かされている存在としての「今」、認識や意識の中に徴す「生」が、心地よさとして甦る。

たしかにバッハの世界は厳しい。

最晩年、『フーガの技法』は、哀調のみが綴られたように感じられます。

でも、やはりバッハの最後の曲は『フーガの技法』。

プロイセンのフリードリッヒ大王に、挑戦状として与えられたメロディーの先に創られた『音楽の捧げ物』。
その延長にあるのが『フーガの技法』だと思います。

音楽家でもあった王からの、悪意でもあり戦争でもある、その挑戦。バッハは一度敗北します。ただそのなかから『音楽の捧げ物』を創造し、更に『フーガの技法』へと進んでいく。最晩年のバッハの強靭的な強さ。それは全てを平衡化する強い意志によってなされた軌跡のように思います。

「神は老獪にして悪意を持たず。」アインシュタインの言葉ですが、後期のバッハには似たような強さと老獪さを感じます。でも故に、どこか親しみを持ちづらい面も確かにあります。

それに比べると、平均律第二巻は、優しさに溢れている。自然体による平衡化が、その奥を貫いている。それに、人間はやはり、悲しみよりは喜びを、苦しみよりは楽しみを求める物だとも思う。

リフシッツ、今回の一連の演奏は全て暗譜だったようです。あの長大な楽譜を全て血肉としさらに演奏する。ふと、パンフレットを見て思ったのですが、まだ38歳なんですね。若い。バッハ、好きなんだろうなあ。素直にそう思えるコンサートでした。

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新国立劇場『パルジファル』

【指揮】飯守泰次郎【演出】ハリー・クプファー
【出演】エギルス・シリンス、長谷川顯、ジョン・トムリンソン、クリスティアン・フランツ、ロバート・ボーク、エヴェリン・ヘルリツィウス、村上公太、北川辰彦、九嶋香奈枝、國光ともこ、鈴木 准、小原啓楼、三宅理恵、鵜木絵里、小野美咲、針生美智子、小林沙羅、増田弥生、池田香織
【合唱】新国立劇場合唱団
【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団

曲目・演目:
オペラ「パルジファル」:全3幕〈ドイツ語上演/字幕付

10/5(日)14時から観劇

クリスティアン・フランツのパルジファルが良かった。

でも何でだろう、非常に疲れた。
演出でダイオードを多用してたのでそのせい? 明りは電燈のほうが好みなのは、年のせいかな。

非常に完成度の高いパルジファルでした。でも、去年の8月に名古屋でみた『パルジファル』や、前回の飯守さんの二期会での公演後の感覚とは何か違うなあ。

歌手もレベルが高かったし、総合的には凄いんだけれど、「情熱」かなあ。国立劇場の公演には、どうしても、その欠如をどこか感じてしまう。

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二期会公演 ワーグナー『パルジファル』

久しぶりのオペラでした。ここ最近はワーグナー位しかいかないから、前回も確か、演奏会形式の『パルジファル』だったような。『パルジファル』もう数回は聞いてるんだなあ。
でも、今回の『パルジファル』は特に良かったです。指揮の飯守泰次郎さんと、読売日本交響楽団が素晴らしかった。

23年前に、ウィーン国立歌劇場の引っ越し公演で聞いた時は、「やったら長いだけの詰らないオペラだなあ。」としか思わなかったんですけれど、それからこつこつと何か離れがたく、じょじょにじょじょに少しづつ世界に浸透して、やっぱりワーグナーの音楽って素晴らしいんだよね。

特に今回の公演は演奏がよかったなあ。普通だと、一幕は詰まらないんで、「お休みタイム!」と言う事で寝る事にしてるんだけれど、ずっと見いってしまいました。一幕は大きく二つの部分で出来て、そこを繋ぐ「場面転換の音楽」。だいたいいつもだと、そこいら辺でおきる。でも、今回はずっと見てました。
それで「場面転換の音楽」がはじまると何だか「グッ」と来ちゃって、やばい。なんでだろう眼頭が・・・あらあら涙がこぼれちゃいました。そんな場面じゃないんです。でも、ワーグナーの音楽には嘘がないんだろうな、それが、指揮者、オケの白熱した情熱で伝わってきた感じです。

台本もワーグナーが書いてます。ただ戯曲としては詰まらないですよ。やたら長いのは説明台詞のオンパレードだからだし、思想的にも問題がある気がする。

主人公パルジファルは、馬鹿で無知な愚か者で、その青年の成長物語。胸に受けた傷に苦しむアンフォルタス王を助け、その王に代わって王位に就くと言うのが、おおまかなあらすじ。

ただアンフォルタスは、胸の傷と言いキリストを連想させるし、その救世主を、愚か者のパルジファル(精神的にはワーグナー個人ともとれる。)が救うことによって世界を救済する。
なんかちょっと間違えば独裁者の誕生を連想する。
今回の演出は、ラスト、パルジファルが軍服を来て騎士たちの前に現れる。ナチスのようにも見えた。どうも、後で調べたらそう言う意図の演出だったらしい。
まあ、確かに、途中で聖戦とか、騎士とか言う話だし、これって十字軍の話? みたいにも取れたので、そういう演出も仕様がないのかもしれない。

まあワーグナーと言えばニーチェで、ワーグネリアンであり、神のようにも崇拝していたワーグナーの『パルジファル』の台本を読んだニーチェが、それ以降、ワーグナー批判に転じるのはワーグナーの思想のそう言う危険性に気付いたからかもしれない。

ただ戯曲だけだったら、残らないだろうなあ。

やっぱり音楽なんですよねワーグナー。多少の誇張や冗長さはあるものの、ワーグナーの音楽は人間の感情の起伏をきちんと表現できてるんだと思う。特に、苦しみ、そして喜び。苦悩やそこからの回生。

クンドリって女がいる。クンドリの苦しみ。
それはキリストの姿をみて「笑って」しまった事。苦しみの重さでもある十字架を背負った救世主がゴルゴダの丘を登っていく、その姿。
呪いの中に閉じ込められ、騎士たちを誘惑し堕落させていく。
「笑え! 笑え! 泣くことはできない、叫び、怒り、暴れ、猛り狂うだけ。」そんな苦しみ。でも苦しみだけではない、堕落は快楽でもあるし、官能でもある。その快楽ゆえにその地獄からは抜け出せない。それに誰にだって有る筈、苦しんでる人間への嘲り。見下ろす時の優越感と快楽。だからそこをきちんと抑えていないと、クンドリの苦しみは音楽として伝わってこない。

ワーグナーの音楽はその心の細部まできちんと折り込んである。だからやっぱり素晴らしいんだと思うんだよね。そして、その苦悩を乗り越えた時の、澄み切った世界、そこで生まれる純粋な喜び。それが三幕の「聖金曜日の音楽」に昇華していくんだと思う。

ただ、今回の演奏だと、3幕はちょっと弱かったかな。「聖金曜日の音楽」もサラって感じで。オケもちょっとお疲れだったのか。演出が邪魔してた感じもする。台本の流れの立体化に重点が置かれて、音楽自体が持つ豊かさの表現が、ちょっと蔑ろ。まあ最近の演出ってどうしても、そうなりがちだし、世界的に言うと、演出家の解釈って奴を、きちんと視覚的に表現しないと、演出もやらせて貰えないのかもしれないんで仕様が無いんだけれど、やっぱりあれだけの演奏、音楽があるんだから、そういうのは勿体ない気がする。

オペラような様々な要素が混在する公演で、全てに満足ってことは無理だと思う。だけれど、それにしても良かったなあ。

舞台神聖祭典劇『パルジファル』全3幕
会場: 東京文化会館 大ホール
指揮:飯守泰次郎
演出:クラウス・グート
美術:クリスチャン・シュミット
照明:ユルゲン・ホフマン
映像:アンディ・A・ミュラー
振付:フォルカー・ミシェル
演出助手:家田淳、太田麻衣子
合唱指揮:安部克彦
舞台監督:大仁田雅彦
公演監督:曽我榮子
キャスト
アムフォルタス:黒田博
ティトゥレル:小田川哲也
グルネマンツ:小鉄和広
パルジファル:福井敬
クリングゾル:泉良平
クンドリ:橋爪ゆか
2人の聖杯守護の騎士:加茂下稔、北川辰彦
4人の小姓:渡海千津子、遠藤千寿子、森田有生、伊藤潤
6人の花の乙女たち:青木雪子、坂井田真実子、岩田真奈、鈴木麻里子、磯地美樹、小林紗季子
合唱:二期会合唱団
管弦楽:読売日本交響楽団

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リヒャルト・シュトラウス:楽劇《ばらの騎士》

久しぶりの新宿です。雑遊で公演があって、終わった後にぶらぶらと。そうだジュンク堂で本を買おう! そう思って、三越に行ったら。あれ? 三越のビルが工事用のボードで取り囲まれて、人の気配もなし。あらら、3月末で閉店したとか。紀伊国屋書店も良いけれど、哲学書や文学書、そんなマイナーな本が充実していたジュンク堂が無くなってしまいました。あああ残念。

どうしようかなあ、あれ「Disk Union」? 中古レコード屋と言うよりも中古CDかな。たくさんあるし、クラシックもあったかなと言う事で、Disk Unionのクラシック館に行きました。新宿通り沿いの献血のあるビルの8階。初めて行ったんだけれで、結構広いし、品ぞろえも充実。それに中古だから安いし。

いま凝ってるバッハ『フーガの技法』。ジュリアード弦楽四重奏団がある、あれソコロフのピアノ盤もあるじゃん。ちなみにバルシャイ指揮の弦楽版もあったけど、69年の録音。どうも調べたら、バルシャイには72年の録音があり、これはLPだけでしか出ていないけれど、そっちが良いらしい。そのうちCDになるだろう、それまでは我慢しよう。

しかし、『フーガの技法』の録音も、とうとう8種類になりました。

と、でも『フーガの技法』の前に凝って集めたCDが、R・シュトラウスの楽劇『薔薇の騎士』です。そんでもって、あちこち見てたら、あれ! カラヤンの82年録音盤が2000円、だって3枚組ですよ。買っちゃえ。

このCD、蕎麦屋の店長が持ってたので買ってなかったんだけれど、恐らく『薔薇の騎士』の録音のなかではもっとも充実した録音。

薔薇の騎士と言えば、何と言ってもウィーンフィル(以下 WP)です。そんなもんで、もってるCDもほとんどがWPです。
カラヤンだと、60年、64年のザルツブルグ音楽祭の放送用録音のCD化かな、そんな海賊盤。EMIから出てる、正規のフィルハーモニー交響楽団も抜粋版であるけれど、やっぱり音は悪くても、WPが良いなあ。

それに指揮者で言うとエーリッヒ・クライバー、ヨーゼフ・クリップス、レナード・バーンスタイン。結構、異端だけど、結構気に入ってる、ハンス・クナッパーツブッシュも、みんなWP。クレメンス・クラウスもあるけれど、これは戦中の録音で、バイエルン放送交響楽団の演奏。

ただねえ、やっぱり古いんですよ。オペラだし、ライブ録音がほとんどんだしね。そんな点では、やっぱり80年代のカラヤンの録音は、いろいろな面で充実しています。それに、このオペラ、実は焼きまわしです。それまで、『サロメ』、『エレクトラ』とちょっとキワモノっぽいオペラを作って来たシュトラウスが、「やっぱりモーツァルトが良い!」って事で、モーツァルトのオペラ『フィガロの結婚』をモチーフにしたオペラ。その後『魔笛』を基に『影の無い女』を作ったりもした。

でもねえ、やっぱり焼き回しって、焼き回しなんですよね。オリジナル、つまりモーツァルトを越える事は出来ない。たしかにラストの三重唱、二幕の冒頭の二重唱、一幕ラストの元帥夫人のアリア等は素晴らしい。でも全編に統一された何かがない。モーツァルトにしろ、ワーグナーにしろ何処を切っても強い体臭のように匂いがする。でも、シュトラウスになるとその体臭が弱い。
クラシック音楽の中でシュトラウスはバッハ以降、200年近い訳ですから、技術的には可能性が極められた、でも、とうとうその限界が見えてきたって感じが強くする。
だから、シュトラウスもモーツァルトに戻らざるを得なくなる。これ以降だと、もうグランド・オペラとして人口に膾炙するような作品が無くなって来る。そして1949年にシュトラウスも亡くなる。
以降、確かに60年代にはまだ、WPも健在だったし、シュワルツコフのような大歌手もいた。しかし、80年代になると流石に、WPの音も、かっての豊穣さを湛えた豊かさよりも、磨きのかかった輝きのほうへ近づき豊かさが消えて行く、歌手も技術的には完璧でも小粒になってくる。

そんな悲しみを遠くに湛えながら、それでも豪華絢爛に、かつ大時代的に、オペラが幕をあける。そんな感じがします。

リヒャルト・シュトラウス:楽劇《ばらの騎士》フーゴー・フォン・ホフマンスタールによる3幕の喜劇
レーベル:DG Deutsche Grammophon 規格品番:UCCG-4458
ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ヘルベルト・フォン・カラヤン(指揮)1982年11月、1983年5月、1984年1月 ウィーン

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フーガ、調和 J・S・バッハ『フーガの技法』

バッハ晩年、プロイセンに着くと、ちょうどフルートの名手でもあったプロイセン国王、フリードリッヒ2世は、自分の演奏会を中断してバッハを呼び、国王自らフーガ主題を与えた。
バッハはすぐにその主題に基づいて演奏を行う。さらに国王は6声のフーガが聞きたいと望んだが、バッハは王の主題ではなく自分の主題で演奏を行ったとか。

バッハはその事、王の主題ですぐに演奏できなかった事に対して、納得せず。その主題に関しての曲を作り、王にその楽譜を送った。

それが『音楽の捧げ物』、そしてそのあと死ぬまで「一つの主要楽句に基づくありとあらゆる種類の対位法とカノンを含む」フーガの技法に取りかかった訳だけれど。『フーガの技法』の主題は、正直言って面白くない訳です。メロディーとして綺麗でもないし、それこそ耳に心地よくもない。

多分だけれど啓蒙国王として有名で音楽にも通じたフリードリッヒ2世はバッハに挑戦もする意味であの主題を出したんじゃないかな。意地悪な主題とも言うべきもの。意地悪な要求。それも、きちんと音楽を、また治世者として政治と言う人間相互の戦争をも含んだ上での要求。

恐らくバッハは、その挑戦に一旦は負けたものの、逆にそのことで逆に奮起して『フーガの技法』と言う、なんとも言えない試みに進んでいく。『フーガの技法』の主題も国王の主題の発展形としてあるとの研究もあるらしい。

ハイデッガー『ヘラクレイトス』(創文社)をペラペラめくってたら「FUGE」が出てきた、ドイツ語でFUGEは「結びつき」、ギリシャ語の「αρμονια(ハルモニア)」つまりハーモニー、調和だとか。意地悪な主題ってのは、結びつき難い主題なのだと思う。それをどうにか結びつけていく技法。そしてそれが「調和」を響かせていく。それには確かに結びつき難い主題の方が良いのかもしれない。
喜びや憎しみ何て言う感情を、超越したところで初めて結びつく調和。なにかそんな気もします。『フーガの技法』

参考 『バッハの生涯と芸術』フォルケル著(岩波文庫)
「バッハ・音楽の捧げ物・フーガの技法」カール・リヒター、ヘルムート・ヴァルヒャ(アルヒーフ)の解説

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Author:オカダヒサオ
本書きです。公演もする事になりました。

公演情報と、その他もろもろ、書きます。

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