FC2ブログ

ブログtop > カテゴリ - 西洋美術

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

ブログtop > カテゴリ - 西洋美術

『真珠の耳飾りの少女』 マウリッツハイス美術館展 東京都美術館

『デルフトの風景』が来るかなあ? と思いつつ・・・。やっぱり来ませんでしたね。『マウリッツハイス美術館』展。

去年位だったかな、『真珠の耳飾りの少女』が来るって朝日新聞の記事が有ったんで、これはもしかして『デルフトの風景』もくるかな? なんて思ってたんです。展覧会のチラシが出来るのも遅いし、なかなか展覧作品もはっきりしない、うーん、交渉はしてて結局駄目だったということなのかな、詳細は不明ですけれど。

プルーストが、最大の絵画と言った『デルフトの風景』は確かに見たかったなあ。まあ、ハーグにまで行けばいい訳ですけれど。ハーグ市立美術館で展示されてるみたいです。

そんなことが有ったのと、公演ですね、8月半ばに公演があったのでなんとなく先送りになってました。東京都美術館の『マウリッツハイス美術館 展』行くのが遅くなっていました。

フェルメールと言うと混雑は当たり前の東京ですけれど、朝一で行って、そうするとどんどん混んでいきます。そうだ狙いめ夕方、閉館間際です。

閉館なんで、人はどんどん居なくなる。『真珠の耳飾りの少女』は、近くで見るのにだいたい30分待ちです。肩越しにならすぐ見れるけど、やっぱり近くで見たくなるもので。閉館間際だと、何度も並べるしすぐ順番がまわってくる。

この少女の絵。有名だけれど、フェルメールっぽくはない。なにせ背景が無い訳です。あの窓から差し込む光の魔術は見られない。だからあんまり期待はしてなかったんです。でも、やっぱり本物を見ると、凄い絵でした。

初回に行った時は、混んでたんで人の肩越しに見てたんですけれど、この絵、生っぽいんですね。なんでだろう。それで、先にも書いたとおり暫くして夕方に行って近くで見たんですけれど、眼が、まるで本物の眼球のように見える。微かに開いた口元も、そこからちらりと見える舌と歯も、まるで本物の血と肉で出来てるように生っぽい。この絵は、フェルメールの絵の中でも対象への距離が一番近いと思います。それに他の雑多な物がない。だからこそ、そこまで器官としての肉体を丁寧に描くことができた。

例えば『画家のアトリエ』の背景の壁に掛った地図の正確な描写には驚くし、『ワイングラスを持つ若いドレスの女』の赤い服の、絹地の光沢と、縫い目まで露わな正確な描写にも驚きます。でも確かに人は遠く、ここまで正確には描かれていない。

それにこの絵には教訓めいた寓意をいれる余地もない。なにせ女の子が一人ですから。でも丁寧に正確に、ただ対象と対峙している。

ちょうどレンブラントの絵も有りました、あの後期の自画像。でもフェルメールには自画像がありません。『画家のアトリエ』の画家がそうだとも言われているようですが、後姿だけだし。恐らくフェルメールにはそういう欲求もなかったのかなあとも思いました。

レンブラントの絵も凄いけど、ちょっとそう言う所がある。「私」と言う何かが垣間見える。でもフェルメールの絵にはそれがない、ただ対象に忠実に、でもたんに描いて行く、ただそれだけの凄さ。

簡単なようで難しいなあ。ちょうど公演も終わって、こういう作品に向かうと、なんと自分の小さな事か、まあ比べるのもおこがましいけれど、それはそれで道は遠く、でもあるだけ幸せなのかなあとも思いつつ。
スポンサーサイト

ブログtop > カテゴリ - 西洋美術

ラファエロ 

ゴールデン・ウィークとは言え、お蕎麦屋さんでお仕事だった訳ですけれども、三日の日の昼間だけお休みになってね、急に。ああそうだチケットが有ったな、フェルメールを見に行った時に買った、ダビンチ展のチケット。

Bunkamuraザ・ミュージアム「レオナルド・ダ・ヴィンチ美の理想」展

ただね、ちょっとね。『ほつれ髪の女』って、それがメインなんですけれど、素描画だし。紹介見たら、『岩窟の聖母』が来るって? ルーブル? ロンドンナショナルギャラリー? これは行かなくては! とチケットを買ったんです。でも調べたら複製品らしい。本物とかの説もあるらしいですけれども。

そんなもんで、なんとなく、まあ行っとこうか、チケット有るし、時間もあるし。第一、今、行っとかんと、何時行けるか分からないし。そんな感じです。

休日だったんですけれど、人はまあまあ。それなりに見て、ふっと見たら。あれ? これってラファエッロ『鶸の聖母』? ええなんで、そんなん来てるって、書いてなかったしって目録見たら、やっぱり『鶸の聖母』。

『鶸の聖母』はフィレンツェのウフィッチィ美術館の筈だが、個人蔵?
でもでも良く良く見たら、こちらもどうも複製らしいです。

ただ、良く出来てる。

ダ・ヴィンチは厳しいんですよ。そりゃ理想ですから、理想って実は厳しいし、その厳しさがダ・ヴィンチをして天才にもしてるんだと思います。だって完璧の追求のあまり、完成作品はないとまで言われてる。人間だもの、存在は未完です。

ミケランジェロにも同じような厳しさがある。もっと直に来る直接的な厳しさ。

昔は、若い時は、そんな厳しさに憧れたりね。でも年を取って来ると、実は、ラファエロの優しさの方に惹かれる自分がいたりする。無垢な少女のように、ただ優しさに溢れた聖母。無邪気な子供のように戯れる幼子イエス、そして天使。悪戯だってするだろう、だって人間だもの。

ダ・ヴィンチのイエスや天使は、使命によって選ばれたかのような厳粛さに満ち満ちて、聖母も深い思索の末に、全てを受け入れる覚悟。ほほ笑みの中に微かにたゆとう光、それも深い苦難の末の諦めの先にある微かな光明のような、なにかそんな統一に満ちた、全体の意志が見られたりもする。そう、まあ理想。真実のイデアとか、まあ。

でも、それって疲れるんだよね。若くて、パワーもあって、何でか「善」に向かってて。でも年をとってちょっとずつ奪われて、でもそれで真実みたいなものの影が微かに漂ってくると。そんな理想って、実は、本当は、ちょっと胡散臭いんでないの? みたいにね。

ラファエロは37歳で死んだとか。「ラファエロは無垢の青春、人生最初の幸福期だけを生きるように運命づけられていた。幸福以外、知る事も無く。(中略)生命が衰退へと微かに傾きかけるその直前、光の中に姿を消した」H・フォション『ラファエッロ 幸福の絵画』(平凡社ライブラリー)

幸福か。それは無垢で無邪気で、そして悪戯っ子

ブログtop > カテゴリ - 西洋美術

剃刀の刃のように、極めて極めて、 ジャクソン・ポロック

近代美術館で、「ジャクソン・ポロック展」やってました。生誕100年、日本初のポロック回顧展なんですね。
polloc pic 

日曜の昼に行ったんですけれど、結構空いてました、ゆっくり見れた。それにそんなに多くないんですよ、ゆっくり見るにはちょうど良い位。久しぶりの近代美術館、広いし、でも、併設のクィーンアリス アクアは閉店でした、景気悪いのね。皇居のお堀が見えて、良いところだったんだけれど。

ポロックって言うと、上のアクションペインティングの絵しか浮かばなかったんですけれど、初期の絵から見れて、そこは面白かったかな、でもやっぱり価値あるのは、50年ころの、上の絵の頃の作品。

床にキャンバスを置いて描く。上下も左右もなし、ただの軌跡。それが精神の軌跡に昇華した、それがポロックの絵なんだと思う。
知らんかったのだけれど、その描画法って、ピカソへの対抗意識から生まれたとか。アメリカが世界の中心へと向かう、そんな時代の流れから生まれた。

でも、危ういんだよね、特に晩年と言われる、黒が基調になった頃から、なんか行き詰まりと言うか、切迫感が異様に強い。息苦しいかな。
まあ、その後、止めていたアルコールに手を出して、自動車事故で亡くなってしまう。

そんな事を言っても仕様がないのかもしれないけれど、もし、ポロックがもっと歴史のある国にいたら、その悲劇はどうだったのかな? って思った。もしルーブルがあって、絵と会話できたら、なんて無意味なんだけれど、行き詰った時に、そんな事をすると、なんとなく先に行けるような気もする。
それはそれとして、一つの軌跡しか残せないのが表現者だし、そういう意味でアメリカの光と影を背負ったような表現者として、凄い、と言うのは簡単だけれど、なんかそれもつら過ぎるように思う。

こんな不景気な時代に、確かに文化とか、飯の種にもならんし、まあ、無駄な補助金だとか詰らないもんが沢山あるのも事実だけれど、美術館とか文化とか歴史ってのも、本当につらい人間には、何か支えに成る様な気もしました。

ブログtop > カテゴリ - 西洋美術

悪意・攻撃 美の中に美しさとして輝くもの フェルメール

文化村で「フェルメールからのラブレター展」。初めて公開の「手紙を書く青衣の女」。

「妊娠してるよね。」まずそう思った。やさしい絵。夫からの手紙かなあ、とか。でもやっぱりなんかつまらない。
フェルメール 青衣の女

「手紙を書く女」
黄色は、娼婦の色、不貞の意とも。真珠は虚飾の象徴とか。
フェルメール 手紙を書く女

なんかでも、こうやってブログ書いてて二枚を並べると「青衣の女」の方が静謐で良いようにも思うのだけれど、やっぱり本物を見ると、断然、「手紙を書く女」のほうが迫力がある。
ただ、この絵は、背景がちょっと手抜きなんで、そこは見劣りするんだけど。かすかに光るイヤリングの真珠に反映する光とか、そっとおかれた左手のその流れとか。

表現って、つまりは再表現なので、結局は起源がいる。その起源に近づくこと。西洋絵画は、まずダビンチやミケランジェロが、遠近法でその起源に近づいたんだと思う。
遠近法は立体化された理想の空間を前提とする。そこには静謐な世界が展開する。後にニュートンからカントへと安定した空間と時間の世界が定義されるけど、そんな世界。
ルネッサンス以降、カラバッジオがたとえ娼婦や浮浪者をモデルに聖書の絵を描こうと、それは静謐な世界だ。

しかし内面、精神はより多面で、その動きは、嵐にも似ている。もしその精神自体をも立体化し、精神の意味を遠近法で描くならどうなるか。

フェルメールの絵画は、描写としての完璧な遠近法。そして、嵐のような精神の多様な面、善だけでなく「悪」をも深く含み込んでしまうような、そんな力強さで描かれたんだと思う。
もちろん、そんな詰らない事は、これっぽちも考えずに、ただ、現実・真実に忠実にね。

profile

オカダヒサオ

Author:オカダヒサオ
本書きです。公演もする事になりました。

公演情報と、その他もろもろ、書きます。

entry
comment
trackback
archive
category
form
rss
link
qrcode
QR
copyright
Author by オカダヒサオ

Designed by マンゴスチンw

岡田久早雄プロデュース
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。