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アデニア 鉢山町のブラッスリー

公演も無事に終わり。今回は役者・古口くんの彼女に大変お世話になりました。叩きまでやって貰ったり。そのお礼もかねて、古口・マリエちゃんと三人でお食事です。

この所と言うか、演劇に携わるようになってからグルメ関係はご無沙汰です。お金無いしね。その前は結構行ってました。何せバブル世代ですから。レストラン関係の名刺入れ久しぶりに見直したら、随分と閉店の店もあるんだなあ。逆に「ええ! あの店まだ有るんだ?」とか、インターネットだとすぐ調べられるんで便利ですね。

そんな中で見つけたのが、今回行った「アデニア」です。まだ開店して半年とか。渋谷から代官山方面に歩いて10分ちょっとかな、鉢山町の、ちょっと暗くて寂ししい所にありました。シェフは、ニューヨーク・グリルで働いていたとか、大味かなあ? とかも思ったんですが、そんなことは無く繊細な感じでした。

ただ、ネットの情報だとポーションが多くシェアして充分とあったのですが、そこまで量が多いとは感じませんでした。

高田馬場のラミティエさんとか神楽坂のル・ディッサンで、一人分として給される量をみてると。そんなに多くは無いかな。ただ、丁寧に作ってあるんで満足感はあると思います。

それにサービスが非常に丁寧でかつそつがない。恐らく、大きなところで経験を積んだ方なのか、あしらいが上手い。それにスマート。
ワインも状態良かったです。カリフォルニアのカベルネ(HAWKSかな)だったんですけれど、ボルドーグラスに注がれた時の感じが非常に良い。跳ね具合と言うか、泡立ち具合と言うか、ああこれは良い状態のワインなんだなって、すぐ分かりました。なかなか無いんですよ、そういう「生きた」感じってね。

ただ、初めにスパークリングワイン、これが南オーストラリア、赤がカリフォルニア。ブラッスリーなんで、食堂と言うかカフェの上級編の感じになるのかもしれないけれど、何かが足りない。場所で言えば、中目黒から代官山、恵比寿、広尾にかけての地区って土地自体がもつ色は落ち着いているけれど、洗練された独自性がある。もし、アデニアが青山とか西麻布、丸の内とかにあったら、しっくりとくるようにも思ったんです。でも鉢山町と言う少し行くと代官山かたや渋谷となると、あのシンプルさは寂しさを感じさせてしまう。

スマートすぎるのかな、逆に根なし草のような危うさ。

旧世界のワイン、フランスやイタリアワインってそれだけでしっかりと根を張っているような安心感がある。なにか統一されているような満足感かな。そんな所があれば、もっと良くなるような、そんな感じもしました。

でも、近くにあったら、非常に便利です。

アデニア
東京都渋谷区鉢山町1-7
03-5489-5151
http://adenia.jp
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いやはやなんとも、久しぶりのブログです。

忘れていたとか、そう言う事ではないんです。放置プレイを楽しむとかね、そう言う事で良い訳も出来るんですが、まあそれこれも言い訳です。
G.comさんでブログを書いていた時は、週に一・二回は書いていたので、当初はそんなぐらいで書いて行こうとは思っていたんです。まあそれはそれで、実は結構、楽しかったりもした訳で、そう楽しかったと言うよりも、確かに書けたんですわ、そんくらいで、まあ自分で納得出来る文章がね。
でもです、でもなんですよね。今回書き始めて、何本かと言うよりも、つまりはカテゴリーで作った範疇だけは埋めようとして書いた訳ですけれども、どれもこれも詰まらない訳です。自分で書いていて、と言うよりも読み直してみて、これじゃあなあ。なんて思ってしまう訳です。

私の文章に対する感性が変わったのかな? とか思ってG.comさんで書いていた頃のを読み返したりすると、明らかに、そちらの方が良かったりもする。まあ素晴らしいとまでは言えないにしても、自分で納得できるだけの物にはなっている。酷いのもありますけれど、勢いはある。でもでもでも、そんな勢いも無い。まあだから書かなくなって、放置プレイにもなる。

「書く」ってなんなんだろう? なんて事を思う事によって、書いてみようかななんて姑息な手段まで考え出したりして、でも、それはまあ言い訳なんですよねえ。言い訳か、でも誰への言い訳? 自分になるのかなあ。読者と言えればカッコ良いけれど、そんなに読者がいるとも思えないしね。だったら辞めてしまえ。そうです辞めてしまえば、そう「楽」になる。
楽になった所で、いいや「楽」にはならないだろうなあ。そう言う事ではないんだろうなあ。だってですよ。つまりは演劇だってそうなんです。四〇を越えて芝居に携わって、公演をして、また書いて、公演をする訳です。

前回、公演をした時に、思ったんですよ。40を越えてのデビューです。それなりにお客さんも来てくれて、収支も何とかあって。それなりに誉められて。でも、でも、でも、でもそうです。また公演するだろうなあって、そう思ったのは、それはそれと同時に、ああこれでもう絶対に演劇で満足する事はなくなっちゃたんだなああ。

演劇って、つまりは自分の書いた物での公演の事ですけれど。

そりゃあ良い芝居はあるし、舞台は好きだしね。他の公演を舞台を演劇を見れば、それは楽しいし、それで満足だし、すごい舞台があれば、ああなんて幸せなんだろうとかね。でも、でもそこに「私」が入ると、もう絶対に満足は無いんだなって事がヒシヒシと感じられてねえ。そう今でも思い出すな、公演が終わって、演出の剛ちゃん家の三茶から深夜、打ち上げ後のタクシーで環七走ってて、寂しい。その辛さだけが延々と続いていく環状線みたいに。でもだから公演は続けて行くし、でもだから、その地点に行きつく為に、なんか本当に遠く遠く遠回りで、そこに。原点なんては言わないけれど、なんかそんなところに絶えず戻って戻って、戻って初めて、また始める。寂しいから、辛いから、そのことのなかにしか、なにか本当に大事な物は無いのかな? そんなことを思って。ちょっと長めに書けた。ちょっと嬉しい。

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2012年3月11日 東日本大震災から一年です。

方丈記に曰く「月日かさなり、年経にし後は、言葉に懸けて、言い出づる人だになし」とは元暦の大地震の記述だけれども、まあ確かに、被災地は別として、年を経るごとに、忘却の彼方へとなってしまうのも致し方ないのかなあ。と特にここ東京ではそうも思います。ただ、今もって、出かける時は、ガラス食器は、きちんと固定。揺れが分かるように、見える所には、水を入れたペットボトルが置いてある、窓ガラスには、透明テープで補強してあるし。

でもまあ、本来の、大地が揺れる国に生きている、と、その普通の状態に戻っただけなのかもしれんなあ。

「神は老獪にして悪意を持たず」はアインシュタインの言葉だけれど、神はまさしく自然。喉に刺さった骨のように、でも窒息しそうな痛みもって、原子力。E=mc2が原子力と結びつくと、その発見から30年後、亡命中アメリカで言われたアインシュタインは「ほんとうかね?」とまわりの人みんなに呆れられたそうだけれど。※

科学とか、万能な筈はなく。自然は、気まぐれな神々のように老獪で、ただ「悪意」もなく、ただ淡々と、起こるべき事を起こしているに過ぎない。

欲望が、それを引き起こしたとか、犯人探しは、どうでも良いとして、またその事も、自然の一部に過ぎない。人間も、傲慢にも自然を「対」として志向するけれど、所詮は、それもその巨大な機構のささいな一部であって、巨大な大河の流れに起こるさざ波のようなものにも思う。

ゴダールの『愛の世紀』にこんな台詞がありました。老夫婦の会話
老人「欲望もいつかは疲れ果て、」
老女「道化だわ、」
老人「真実と出会う。」
老女「わたしたち、みんな道化。・・・問題に耐え、生き残る」

※『アインシュタイン選集3』共立出版 アインシュタイン小伝より

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オカダヒサオ

Author:オカダヒサオ
本書きです。公演もする事になりました。

公演情報と、その他もろもろ、書きます。

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